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6 May 2016
石山貴美子 写真展
~わたしが出会った素敵な作家たち~1970年代雑誌「面白半分より」
会期:2016年5月9日(月)~14日(土)
会場:巷房
〒104-0061 東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル

雑誌「面白半分」
1971年、佐藤嘉尚によって起こした株式会社面白半分が発行した月刊誌。
編集長は原則、人気作家が半年毎に交代し、1980年の廃刊まで、
その編集に多くの小説家がそれぞれの作家魂を競った伝説的雑誌。
吉行淳之介 (1924~1994)
作家
「面白半分」初代編集長
吉行が創刊号で始めた連載「随舌」は終刊まで続くが、創刊号では大岡昇平、金子光晴、開高健が登場した。
モダニズムの詩人、吉川エイスケと美容師あぐりの長男として岡山に生まれる。2歳で両親と共に上京し、東京麹町で育つ。東京帝国大学英文科に入学するが、授業には出席せず学費未納で除籍となる。1947年新太陽社に入社し、様々な雑誌の編集に関わる。この時期に澁澤龍彦や、同人誌活動を通じて、安岡章太郎、阿川弘之、三浦朱門、島尾敏雄らと知己を得る。1954年、「驟雨」で芥川賞を受賞し、これを機に作家生活に入る。私小説的な純文学作品のみならず、「軽薄のすすめ」など軽妙な随筆、さらに対談の名手としても知られ、『軽薄対談』、『恐怖の対談』などにまとめられている。翻訳では、ヘンリー・ミラーの『愛と笑いの夜』、井原西鶴の『好色一代男』の現代語訳も手がける。女性にもてたことでも知られ、そのエピソードは枚挙のいとまがない。妹には女優の吉行和子、作家の吉行理恵がいる。
羽仁五郎 (1901~1983)
歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)/参議院議員/日本学術会議議員
父の森宗作は第四十銀行の創立者で初代頭取。東京帝国大学法学部に入学後、休学しドイツに渡り、ハイデルベルグ大学哲学科で、歴史哲学、現代史、唯物史観を研究。帰国後、同大学文学部史学科に再入学。1926年、羽仁説子との結婚に際し「彼女が独立の女性として成長することを期待して」婿入りし、羽仁姓となる。卒業後は、反戦の姿勢を貫き、治安維持法容疑で拘束されるなど、終戦は警視庁の留置所で迎えることとなる。1947年、参議院議員選に出馬し当選する、1956年まで革新系議員として活躍し、国立国会図書館の設立に尽力する。晩年は新左翼の革命理論家的存在として、学生運動を支援する。「都市の論理」はベストセラーとなる。ドキュメンタリー映画監督の羽仁進は息子、羽仁未央は孫。
草野心平 (1903~1988)
詩人
1903(明治36)年5月12日、福島県石城郡上小川村(現在のいわき市小川町)に父馨、母トメヨの二男(長女綾子、長男民平、心平、三男天平、二女京子)として生まれ、祖父母のもとで育つ。幼い頃から腕白でひどく癇が強い子どもで、本を食いちぎり、鉛筆をかじり、誰かれとなく噛みついていた幼少期を、心平自身も、故郷の阿武隈山系に見られる大花崗岩のように「ガギガギザラザラ」だったと描写している。県立磐城中学校を中退後、慶応義塾普通部に編入。そして1921年、中国、広東省広州の嶺南大学(現・中山大学)に留学。この時、16歳で夭折した長兄民平の遺品である3冊のノートを持参。そこに書かれていた詩や短歌に触発され、詩を書き始める。ます。1923年夏、帰省した心平は亡兄との共著詩集『廃園の喇叭』を、母校の小川小学校から謄写版を借りて印刷。1925年には、同人誌「銅鑼」を創刊(宮沢賢治、黄瀛らが同人)貧困の中、新聞記者、屋台の焼鳥屋、出版社の校正係等で生活の糧を得ながら30回以上の引っ越しを繰り返す。1928年、初の活版印刷による詩集『第百階級』を発表。 「蛙」をはじめ「富士山」「天」「石」等を主題にして詩を書き、その根底には「すべてのものと共に生きる」という独特の共生感がみられる。書、画等、多彩な創作活動を展開し、1988年11月12日、1,400篇余の詩を残し、生涯を終える。
野坂昭如 (1930~2015)
「面白半分」2代、8代編集長
作家/放送作家(阿木 由紀夫)/歌手(クロード のさか)/落語家(立川 天皇)作詞家/政治家/タレント
新潟県副知事を務めた野坂相如とぬいの実子として、鎌倉で生まれるが、生まれる直前に両親が離婚し、生後まもなくして神戸に養子に出される。その後、福井、大阪を転々とする。シャンソン歌手を目指して早稲田大学第一文学部仏文科に入学するが中退。その後、CMソング作詞家、雑誌のモデル、雑誌へのコラムの発表などに精力に取り組み、1967年には、『火垂るの墓』と「アメリカひじき」で直木賞を受賞。作家としては『我が闘争 こけつまろびつ闇を撃つ』で講談社エッセイ賞、『同心円』で吉川英治文学賞、2002年には文壇での活動への評価で泉鏡花文学賞を受賞。1983年、参議院議員選挙に出馬し、当選するなど、その才能と人間的な魅力をいかんなく発揮する。晩年は農業の重要性を訴え、米づくりに精を出すのみならず、2000年には、東京阿佐ヶ谷で「野坂塾」を開塾し、戦争体験を主に語った。
金子光晴 (1895~1975)
「面白半分」6代編集長
1985年、愛知県の酒商の大鹿和吉と母、里やうの間に生まれるが、2歳の時に父が事業に失敗し、6歳の時に正式に土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘一郎の養子となる。その後、養父の転勤で東京に転居。泰明尋常高等小学校、暁星中学を経て、小説家を志して、1914年、早稲田大学高等予科文科に入学するが、自然主義文学の空気になじめず、翌年に退学。同年4月に東京美術大学の日本画科に入学するが、8月には退学。9月に慶応義塾大学文学部に入学するが翌年6月に中退する。このころから詩作をはじめ、国内、ヨーロッパへ遊学。1924年、小説家志望の森三千代と知り合い、恋愛関係になり、室生犀星の仲人で結婚する。その後もアジア、ヨーロッパ、中国北部を旅し、1938年に帰国し、吉祥寺に居を定める。光晴、三千代ともに恋多き人生を歩み、離婚と入籍を繰り返すこととなる。世界各地のしたたかな人々の生き方に出会った実経験を元に、戦後は旺盛な詩作に取り組み、多くの作品を発表、詩人として地位を確立する。
KIMIKO ISHIYAMA石山 貴美子
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